一、ごめんねといえなくて
 いつもなら、チエのすむアパートをでると、いそいで本屋さんのかどをまがる。
 なのにその日、チエはすこしゆっくりあるいていた。
 少年マンガや少女マンガが、店さきにならんでいるのをよこ目でみながら、大通りにぬける道をあるいていた。
 いつもならスキップしているはず。
 その日は、とぼとぼとあるいていた。
 とちゅう、左がわにあるほそいジャリ道をまがる。
 ケイのうちは、そのジャリ道のつきあたりにある。
 つばきのいけがきのむこうから、高く大きくおいしげる、みどりの入道雲(にゅうどうぐも)みたいなクスノキが目にとびこんでくる。
 それを見ると、心がほわっとなる。
「ケイくん! あそぼっ」
 いつものチエなら、元気よく大きな声をだしながら、かってにはいっていく。
 古い木でできたりっぱな門は、かんのんびらきにあけはなしてある。
 でもその日、チエはクスノキからも元気がもらえないまま、立ちどまっていた。
 声をだそうかまよっていた。
「ケイ…くん……」
なさけないほど小さな声だった。
「いいよ!」
 いつもどおり、ケイの声がした。
あれっ、ほんとうにきこえたのかしらとおもった。
 にわのひなたは、ぎらぎらに燃(も)えていて、まだまだ夏といってもいいくらい。
 おでこにあせがにじんでいる。
 チエは、ケイにいいにくい「ごめんなさい」をいわなければいけないとおもっていた。
 なのに、なにもなかったかのようにケイがむかえいれてくれた。
「ごめんなさい」はいえないままぐずぐずしていた。
 けっきょく、チエはいつもどおり、ケイのうちにあがりこんでしまった。
 夏休みにあじをしめた、手作りのうめぼしを、おばちゃんは、
「さあどうぞ」
といってすすめてくれる。
 いつもどおり、ちゃいろくテカテカしている、つぼのふたをあけてくれた。
「すっぱいけど、おいしいね」。
 チエは、しわしわのうめをあめだまみたいに口にほうりこんだ。
 こいピンクに白いしおのつぶがくっついているうめぼしのあじを、楽しみながらしばらくしゃぶってた。
「あかじそっていうんだよ、この色とあじ」
 ケイがせつめいしてくれる。
「ふーん、ケイくんのおばちゃんのうめぼしだいすきよ、ほんとにじょうずね」
ケイは、チエに、にこっとえがおを見せ、
「まあね、」
といいながら、えんがわからとびおりた。
 ケイは、はだしの足にくつをはいた。
「チエちゃん、そとであそぼう」
いわなければいけない「ごめんなさい」がまたあとまわしになってしまった。
 こくんとうなずいてチエはうめぼしのたねでほっぺたをふくらませ、くつをはいた。
 ケイにさそわれるがままに、はしっていった。 
 おにごっこをしながら、みどりのクスノキにちかづいた。
「チエちゃんは、見てな」
 ケイは、にんじゃみたいにするするっと、その木の上まで、あっというまにのぼってしまう。
 ざざーっと、クスノキがえださきをゆらした。
 チエにちゃんとあやまれよといってるみたいだった。
 えだがゆれてから、風もそうだそうだといいながら、とおりすぎていった。
ケイは、クスノキにすいこまれて、もう見えなくなってしまった。
 チエは、いつも下で、おいてきぼり。
 まるでジグソーパズルのすきまのような、みどりとみどりの間に、ときどきあらわれるケイをみつけるだけ。
 首がいたくなるまで、ずっとケイのようすを目でおいつづけていた。
 いつかチエも、のぼれるようになりたいとおもっていた。
 きっと、とおくの山が見えるのだろう。
 木に立ちよる小鳥とはなしをして、「あっちの野原(のはら)がおもしろいよ」って、おしえてもらっているのだろう。
 木のぼりできないチエは、ケイが木の上でなにをかんがえてるのか、想像(そうぞう)しながらすごしていた。
 そして、いつかこの木にのぼれる日がきたら、ケイとならんで、とおくをながめてすごしたいとねがっていた。
きょうは、ケイもクスノキもぜったいにおこっているとおもえた。
 チエは、うめぼしのたねをじゃりっとかんだ。
 たねのなかの、にがいテンジンさんをたべたら、「ごめんなさい」といえる勇気(ゆうき)がでるとおもった。
 テンジンさんをとりだして、かみくだいたたねのからをぺっとはきだした。
 テンジンさんを、もういちど口にほうりこんだ。
 チエは、おもいきって木の上のケイにむかっていおうとした。
(今日は、学校で、たたいてごめんね)
 心にあることばはいえず、べつのことばが口を出た。
「ケイくん、いつのぼりかたを、おしえてくれるの」
「こんどね」
「こんどこんどって、いつ?」
「チエちゃんが、いじわるをやめたらだよ」
どきっとした。
 チエはじぶんがあんなにひどいことしたのに、ごまかしたままだったことを、おもいだすしかない。
 どうしても、ケイにすなおにあやまれず、
「わたし、いじわるじゃないもん」
と、口をとがらせた。
 またいいかえしてしまった。
「じゃあ、まだこの木にはのぼれないね」
えだの間からすがたはみえないケイの声だけが、きこえていた。
「ケイくんだって、いじわるしたじゃない」
「いつ?」
「いま」
「あはは、これはいじわるじゃないよ。チエちゃんのためをおもっていったんだから」
ケイはつづけた。
「チエちゃんさ、学校でいばりすぎだよ」
チエは、口をへの字にむすび、ほっぺたをぷっくりふくらまして、クスノキにせをむけた。
 足もとにおちている、うめぼしのたねのかけらをぎゅっとふみながらかんがえた。
 ケイのいってることが、あたっていた。
(ケイくん、いままでそんなふうにいったことないのに……)
 チエはそのまま、走ってうちまでかえってしまった。
 クスノキの上から、えださきのゆれる音といっしょに、ケイがよびとめる声がしていたような気もした……。
(なんで、あんなこというのかしら。わたしのためだなんて……)
 チエは、その日、いわなければいけない「ごめんなさい」が、とうとういえなかった。
おいかけてくる風は、「なんで、あやまらないんだ」とせめている声になってふきつけてきた。
 いままで、チエが学校で、いくらわがまましたって、ケイはまい日あそんでくれた。
 いつもやさしかったから、チエはケイがしんぱいしていてくれてたなんて、わからなかった。