九、ミステリーの糸
 鳥越家では、紗枝が泣いて帰ってくるという前代未聞の一大事件が起きた。
 おまけに、男の子が、息せき切って、追いかけてきたのだから、母親は目を丸くしたまま、コロッケを上げる手を止めた。
 紗枝を追って部屋へ向かう。
「おい、かあさん、火の元っ!」
 よんでも気づかないほど、冷静ではない母親を見て、思わず、ガスレンジの火を消しはしたものの、父親だって、腕組みをするしかない。
「おじさん、すみません」
とよぶ声で、店の前に、追いかけてきた杉太が突っ立っているのを思い出した。 
「君か、どうしたんだい? 何があったというんだ?」
 紗枝の父親は、おだやかに聞いた。
 杉太は何をいってもいいわけにしかならないので、謝るしかないと思っていた。
「紗枝ちゃんを泣かせちゃって、ごめんなさい。あの、ぼくと洋平君が、紗枝ちゃんの守護霊が、ひろばの、昔折られた桜の木の精だって、おどかしてしまいました」
「うーん、そんなことで紗枝が、」
 信じられないという顔のまま、父親は続けた。
「こわがって泣いたっていうのかい?」
「はあ、まさかと思ったけど、やっぱり、まずかったなあと反省してます」
 ひたすら、頭を下げている杉太だった。
「事情はわかったよ。なに、男勝りの娘だからさ、そのうちけろりと笑って気持ちが変わるだろうし、だいじょうぶだよ。そんなに気にしなくていいよ。」
 杉太はとりあえず、父親に許してもらえたので、紗枝には会わずに帰ることにした。 
 父親に、明日、紗枝には学校で詫びる約束をして、コロッケ屋「キッチン」を後にした。
 紗枝は、二階にある自分の部屋のベットでねっころがっていた。
「紗枝、紗枝、どうしたの?」
 母親が、後を追ってきて、閉められている引き戸をそっとたたきながら、声をかけた。
「なんでもないよ。ちょっと、疲れただけだから」
「そうなの」
 心配してくれているのがわかっていたが、つっけんどになった。
「ちょっと眠らせて!」
「ああ、それがいいね、ゆっくりおやすみ」
 母親が、そっと階段を下りる音を聞きながら、紗枝は何も考えたくなくなって目を閉じた。
何も考えないはずが、目を閉じれば紗枝の心の世界が入り口を広げた。
 つぎつぎに、紗枝を泣かせたものが現れては消えた。
 洋平が見たという、桜の精、お姫様なのかもしれなかった。
 おじいちゃんの話から思うと、大昔から生きつづけた、何百歳にもなる老木だったのだから、おばあさんかと思っていた。
 まるで、ミステリー小説が映画になって、事件の核心を伏線の糸にして絡ませている。
ベッドに寝転がりながら、最近読みあさっていたミステリーの結末を、あれこれ思い出そうとしていた。
 洋平が見た守護霊の話は、まるっきりの冗談でもないような口ぶりだったし、紗枝には否定できないことだった。
 洋平が、ただおどかすだけの意地悪ではないこともわかっていた。
 だから、もし紗枝の守護霊が、あのひろばにうまっている桜の精だとしたら、八百屋のおじさんや、不動産屋さんが店を出す前に亡くなった原因が、紗枝に全くかかわりがないといえなくなるのだ。
 紗枝は、洋平の見た自分の守護霊に直接聞いて、この不安を断ち切りたい。
なにか良い結末は無いか、ヒントになりそうなミステリー小説を思い出したかった。
そして頭のすみで、不覚にも杉太に涙を見せてしまったことを悔やんでいた。
 刃物を扱って肉を解体する仕事は、紗枝の憧れでもあったが、そのわけが、洋平の一言で解き明かされてしまったみたいに、じわじわと紗枝に押し寄せてきた。 
その夜、紗枝は自分の守護霊とやらに語りかけずにはいられなかった。
 もしかしたらあの恐ろしいできごとが、紗枝とは関係がないといい切れなくなった。 
 このまま知らん顔で守護霊とやらの思いのままに時を過ごしたくない。やばんな殺意じゃないと、紗枝の正義感が黙ってはいさせてくれないのだ。
 覚悟を決めた。
紗枝は、眠れない瞳を閉じた。
 とにかくほんとに自分の守護霊ならば、そして、あのひろばに関わる過去の事件が何かを知らせるメッセージだとするなら、問いかけに応えるはずだと信じられた。
 多少のことで動揺するつもりもない。ただただ、真実を追究したい思いで一杯だった。
(桜の根っこの精ならば、貴女が多少なりとも私に影響を与えているのなら、疑問に答えてほしい。こととしだいによっては、私の精一杯の協力をおしまない。たとえ、生身のこの命をかけてもかまわない)
 いくら深呼吸を続けても、心の不快さとは別のところで、頭の奥はますますはっきりと目覚めていた。
 どれほど時間が過ぎたのか、静けさがまだ夜中であることを告げているのか。
 あるいは、異次元にすべりこんだのか。今の紗枝にはどちらでもよかった。
かすかに、声が聞こえた。
『・・さま。・えさま。さえさま。このたびは、まさかあなたさまとじきじきにおはなしできるとは、このうえなきしあわせにござります。少し前、こちら側に声を置き忘れていた、あの少年はとてもやさしい方ですね。子犬がわたくしの家来の生まれ変わりなものだから、なんとか、返してやることが出来ました』
(あ、あなたは私の守護霊かもしれない、ひろばの桜の姫ですか)
『いかにも。あのひろばに生きた桜でございますよ。守護霊というのかどうかよくはわかりません。ただ、さえさま、その竹を割ったようなご気性を見込んでお近づきになりたかったのは本当のこと』
(えっ、生まれる前からのご縁ではないのですか)
『あのやさしいタタミ屋の子の孫だということはわかっておりましたよ。わたくしが切り倒されるときに、幼いのに戦ってくれた恩はけっしてわすれることはできませぬ、たとえ人の世のうらむ心に負けて、鬼の姿をさらすことがあっても、この心は、私のままであり続けたいのです』
(鬼などととんでもない、貴女はやさしい桜の姫さまです。こうして時々、お話できるのでしょうか。私はあなたにたずねたいことがたくさんあるような気がします。こうして、これからも私の話を聞いてくれるのですか)
『いつもわたくしはあのひろばにいます。今も……ですから、わたくしがいるかぎり、ときにはこうして、わかりあうことが出来るのです。きっと』
(ありがとうございます)
 ほっと安心したとたんに、うたたねからさめたように紗枝は目をひらいて、横になっていた。
 あたりをきょろきょろしただけで、いつもの紗枝の部屋だった。
春の息吹と共に、生命の力を見せつけてくれる桜の花。
 そして、クライマックスはあまりにも短く、潔い。