二、桜ひろばの三人
 読書家の紗枝は、近頃は、冒険ファンタジー小説か、ミステリーを読みあさっている。
 コロッケ屋「キッチン」の娘。
 店の正式名称は「鳥越精肉店(とりごえせいにくてん)」
だから、鳥越紗枝。
 昔からこの町に住んでいる一族だ。
 はじめは畳店だったが、おじいちゃんの代から精肉店を経営している。
 三代目で、ようやく生まれた女の子でもあった。
 幼い頃から、牛やブタや鶏の生々しい解体作業を見て育っているので、血生臭さに強く、淡々としている。
 三代目として、当然のように、後継ぎになるつもりでいる。
 だが、父親は反対をしている。
「女の子だからな、紗枝は嫁に行け」
「良い婿が見つかって、肉屋をやってくれるんなら、そのとき店を譲っても良いじゃないか。光夫(父の名)、紗枝は案外しっかりもんだよ」
 じいちゃんの意見はもっともだった。
 母親はちょっぴりさびしい。
 コロッケ作りをはじめた、いわば初代コロッケ屋であるわけだったが、二つ下の弟、健(けん)のほうがコロッケ作りに興味を持っている。
「あたし、コロッケ揚げるよりは、肉の解体がやりたいわ」
 紗枝の、ひょうひょうとしたもののいい方に大人たちは口をそろえて、
「だれに似たんだ?」
こう、いうことが多い。
「ねえちゃん、ぼくがコロッケ屋をやるから肉切る方をやってね。そしたら、店はつぶれないもん」
 これで、一件落着。
 鳥越家の家族会議は、笑い声で終わる。

 サッカー少年の杉太は、高級住宅街に住んでいる。
 たったの一年前に越してきた新参者(しんざんもの)。
山鹿(やまが)杉太。
 両親は医者で岐阜県に住んでいるらしい。
 姉二人といっしょに叔母さんのうちに下宿。
 三人で暮らしている。
 高学年になるので、都会の私立中学へ進学するために、東京へ出てきた。
 父親と同じ大学の医学部をめざすらしい。
 一人息子のあととりお坊ちゃまと、紗枝にはからかわれている。
 ただ、桜ひろばでの遊びっぷりは、田舎育ちも手伝って、実にガキ大将そのもの。
「ほんとに、医者の息子かよ」
と、みんなにうたがわれていた。

 洋平のことを語るには、長いドラマがある。
 四年生の時の出来事を説明しなければならない。
少し前までは、洋平も本気でのろわれていたと思い込んでいた。
洋平は、四年生の二学期まで、人前、家族の中ですら声を出さない緘(かん)黙(もく)児だった。
 一年生の夏休みに、父親から宿題をサボりすぎると、かなり一方的に説教を食らい、おまけに大声でおどかされた。
洋平は、自分の言葉でいい返せなかった。
 腹立たしさが限界を超えたことだけ、後から考えてわかった。
何かが、ぷつっと途切れてしまった。
 父親や周囲の者の心には、このことがきっかけで、まるでのろわれたように、誰とも口をきけなくなってしまったと、映っていた。
 必要なことは筆談することになった。
 両親は、医者や担任教師に相談しては、精神面の強化リハビリの必要を説明された。
 親として、何とかしたいと知恵をしぼった。
 とにかく人に勧められるがままに、情緒の発達に良いと聞き、子犬を飼うことにした。
四年前、室内で飼えるポメラニアンのメスが、大平(おおひら)魚店の洋平の部屋にやってきた。
 いつしか、洋平は犬語で交流できるようになった。
 アンと名づけたその犬とは兄妹のようにいつもいっしょだった。
 四年生の二学期が終わった日。
 アンが、行方不明になったのだ。
 家族のように、行動を共にしていたアンには、散歩のとき以外リードをつながない。
 何に誘われたのかアンが、家族が夕食を食べはじめたときに、裏口から、走り去っていったのだ。
 まだ冬休み直前だった。
洋平の心が、大きくゆさぶられた。
 自分のことではない、アンの身の上を心配していた。
 今まで共に過ごしてきて、あたりまえなのだが、分身のようなアンが突然失踪したのだ。
 家族みんなで散歩コースや、よく行く桜ひろばを探した。 
 洋平は、吐く息白い夜のひろばを見渡した。
 となりの社宅の森のほうで、父親が魚屋で鍛えた大声で、
「アーン」
 と、よんでくれていた。
その声に反応して、ガラガラっと社宅の窓を開けて様子を見る人もいた。
 洋平は、土手の上に何気なく目をやった。
 線路の手前あたりに、ガサゴソ音が聞こえた。見慣れたしっぽがゆれていた。
 下り電車が近づいたらしく、東のほうから、踏み切りの警報機が鳴り出した。
 どうしたことか、アンが顔を上げてしっぽをぴんと立てた。緊張しているしるしだ。
 洋平にはわかる。怖がって身をすくませているに違いない。土手の真下まで、駆け寄った。
 下り電車のヘッドライトが土手の上にも届いてきた。
 アンが、ひょろりと線路に向かって吸い寄せられていく。洋平は何とかしなければと、あせる気持ちで登り始めた。
 父親に助けを求めたかったが、声を出せない自分がいたのだ。くやし涙があふれてきた。
 自分が立っているのは草が枯れた急こうばいの土手だ、しかも絶壁に近かった。
 もうだめかと感じた。
 足を踏み外しながらも、腹ばいのようになった。
 にじりあがって、祈るような気持ちでアンから目を離さずにいた。
 その時、下り電車がものすごい音と速さで通り過ぎようと迫ってきた。
「アーン!」
 洋平は、ありったけの声を、小さな小さな妹分に届けとばかりにぶっつけた。 
 三年ぶりの叫び声だった。
 アンは、洋平兄貴の必死の叫びに、向きを変えて、電車の風圧から逃れるように、転げるように走り逃げてきた。
 先に土手から転げ落ちて、仰向けに寝ていた洋平の腕の中で、震えながら、洋平の手や鼻や唇、最後は顔中をぺろぺろなめまわして、安心と喜びを伝えていた。
 真冬の北風だったが、アンと洋平を包み込む、ほわっとした空気に満ちている。
 そこはいつものひろばだった。
 生まれ変わったみたいに、洋平が普通に話せるようになったことは、太平魚店の両隣、花屋と酒屋からあっという間に商店街中に知れ渡り、町をあげて喜んでくれた。
 年末で、クリスマスの大売出しに勢いをつけた洋平の復活だった。
 花屋のおかみさんにごく普通に、
「おはようございます」
 と、朝の挨拶をしたのが、その始まりだった。
 おかみさんは洋平に抱きついて、ミニバラの花束を手渡してくれた。
 アンの失踪事件の翌朝だった。 
 あの桜ひろばで育った、さくら商店街に古くから住んでいる人たちは、親兄弟同様、家族のようなあったかさで、見守ってくれる人たちだ。
 洋平の言葉が消えた時、魚屋の夫婦にとって、どんなに辛いことだったかは皆が理解していた。
 だけど、表には見せない、余計な口出しや、陰口は一切いわず、そっとしておいてくれた。
 同じ日の午後には洋平の父ちゃんのところに、一升瓶が届いた。反対隣の酒屋のだんなが気を利かせてくれた。
「春なら、ぱーっとひろばで花見だが、まあ、正月前の稼ぎ時でお互い忙しいし、まあ、一杯飲んで疲れを取ってくれや。お歳暮代わりだよ」
 洋平の父ちゃんには、すぐに察しがついてうれしし涙で頭を下げた。
 受け取った一升瓶は、高価な新潟の大吟醸酒だった。
「かあちゃん、明日から大安売りの感謝デーにするぞ。仕入れには、いつもより早出で行ってくるから、今夜は早めに風呂入って寝るから。あ、この酒は、正月用に取っておいてくれ。酒屋には、お礼に新巻でも仕入れてくらあ」
 一年余り前の記念すべき出来事だった。