九
 フーワの案内でミキオと共に、元の家があったところへ、行ってみた。
 庭は、夏草がのび放題の野原になっていた。
 無人の廃屋がかろうじて残されていた。
 ほんの少しの間と思っていたのに、時はずいぶん流れたという証が、あちこちに散らばっている。
 日照りは何年続いたのだろうか。
 西側にある楠木の弓の練習場が、まだ残っていた。
 的の残骸が腐り落ちていた。修理している余裕はない。
 ユキタは、その練習場で、たったこの間のように感じる過去の出来事を思い出した。
 弓の名手である嘉信の「黙想しろ」という言葉だった。
 そして、今も心に残る声。
「真に強い男は、けっして孤独で戦うだけじゃない。友を思いやり、ときには助けを求め、
 敵の心さえ取り込み、互いの力を輝かせるこのできる、そんな奴なのだ。弓矢の腕だけを過信するでないぞ」
 時代を超えて、ユキタを励ました。
   ミキオは後ろの方で、黙ってユキタのすることを見守っている。
 ユキタの背中からほとばしる凛々しさを強く感じ、圧倒されていた。
   ユキタは夏草の上に正座し、ひとときの黙想をした。
 集中力を高めるように深呼吸を数回行った。
 静かに立ち上がると、弓を引く動作に移った。
 シュッビシッ
 シュッビシッ
 矢は何度も、楠の幹に突き刺さった。
   ユキタは汗を流した。
 ミキオはユキタの勇姿を黙って見つめながら、考えをまとめている。
 ユキタは、拾っておいたヒスイをていねいに磨き三角のやじりにした。
 弓を湿らせて、ひきしぼってみた。
 ユキタは、再び黙想をはじめた。
 横にはいつのまにかミキオも座っていた。
 二人とも呼吸を合わせるように夕暮れの中、目を閉じていた。
 準備ばんたん整った。
 ユキタは父に黙想させられた後、初めて美しいと感じた夕日の茜色を、時を経て、今は友と見ている。
 そして、今回は、明け方の太陽を狙う。
 夢語り姫の姉である天照を、母親たちの先祖に当たる天照大神に矢を放つ。
 闇は、空を覆う黒雲の下だけではない。
 星なし夜でもない。
 悩みは人の心をふさぐ。
 言い知れぬ闇を広げていくこともある。
 永遠の守り神にも似た、エネドが存在していた。
 そして、そのエネドを打つことになったも同じ。
 慕っている夢語り姫の、身内を傷つける。
 ユキタには、すぐには理解し難いことだった。
 母親に苦しめられていたミキオには、エネドの説教が思いのほか、すんなり理解できた。
 母性は、たとえ我が子に踏みにじられようと、復活する。
 再び我が子を抱きしめることもできる。
 強力な自然治癒力を持つ。
 この星の母性である太陽も、時として謙虚に子の旅立ちを受容すべきなのだ。
 ミキオの力をかりて、ユキタは新たな的に向かって、矢を放つ。
 この時代の、日照りという現実の闇を払う。
 それは帰っていく時代の、沈静を意味する。
 考えを巡らせている間に、夕空はいつのまにか夜の帳(とばり)をおろしていた。
 二人は、廃屋で仮眠をとることにした。
月明かりの下、いつの間にか、白うさぎがそばに現れた。
「また、お会いできましたね。これを羽織って下さい」
 ユキタは夢語り姫の顔をのぞきこむことがでなかった。
 その影が香しさをあふれさせた。
 自分の身体に衣を羽織らせてくれているとわかる。
 その間じっと緊張したまま待つしかなかった。
 バサバサとフーワがユキタのもとに舞い降りた時には、姫の姿はもうなかった。
ユキタは隣で仮眠をとるミキオにつられて、再びうとうと眠りに入った。
 フーワが夜明け間近なことを告げるように、バサバサ音をさせた。
 ミキオが先に体を起こし、ユキタを揺すった。
 半分寝ぼけて、目を見開き、ユキタは言った。
「ミキオ、どこをねらえばいい?」
「ど真ん中でいいとおもう。それしかないだろう」
体を起こしユキタは身繕いをした。
柔らかい感触にはっとした。
虹の色をほのかににじませたような、パステルカラーがやさしい柄の衣からは、甘い果実の香りが上品にただよう。
 ユキタは夢うつつに届けてもらったことに照れていた。
気ははやるが、心は落ち着いていた。
 ようやく目覚めた。
「よし、わかった。ミキオ、いくぞ。滝の上だ。崖をてっぺんまでのぼるぞ」
「おう!」
 茶髪の白シャツと、絹の衣姿が後になり先になり、絶壁をのぼる。
 西に沈もうとしている月が、消し忘れのスポットライトのようだ。
 ユキタは、姫への思慕を衣で包み込んだ。
 ミキオは頂上について息を切らし、汗を拭っている。
 空が、藍色から明るい紺色へ、そして赤紫のグラデーションに塗り替えられてきた。
 ユキタはプリズム模様の衣の袖に顔を埋めて、夢語り姫に祈った。
「運命とはいえ、あなたに矢を向けるような気がします。姉上である天照大神に矢を放つこと、この衣にすがってよいとお許し下された。慈悲を頂きますこと、ありがたき幸せでございます」
 そして、ゆっくり深呼吸をした。
 ミキオと視線があった。
「ミキオ、いいか?」
 言葉で答える代わりに、黙ったまま、大きく首を縦に振り下ろした。
 雲を蹴散らす、金色の光線が現れた。
 東の天と地の境目。
 ユキタは夢色の衣をひらひらとなびかせている。
 立ち上がり足場を決めた。
 前世のみずらとは違う髪型。
 ひょろっとした少年の身体つきではない。
 シルエットは、やや伸びた髪を風にとかせ、鍛え成長している肩幅も背丈も堂々とした獅子の醸し出す風格だ。
地平線が待っているかのように、ゆうゆうと弧を描く。
 ユキタは弓をそらせて、調子を整えた。
 ヒスイのやじりはたった一つ。
 失敗は許されない。
 矢をつがえて、一呼吸し、音をさせながら息を吸うと同時に、弓矢を引き絞った。
 明るい方向へ的を探して呼吸を止めた。
 鳥やけものの声も消された。
 東雲(しののめ)の後、ユキタの正面に暁の天幕に天照大神が、ぼやっと赤色の大きな的となって現れ始めた。
 ユキタの弓は大きく振動した。
 ビュン!
 キラリ!
ユキタの放つ矢の軌跡は、碧(みどり)の光りをはじけさせながら大地の母の胸元に届いた。
「ウォー!」
ユキタの雄叫びがとどろいた。
 ヒスイの矢じりは音と同じ速さで、突き刺さり閃光を飛び散らした瞬間に、燃え落ちた。
夏の暁は,さほど血色を変えたわけでもないが、空に映る影をトーンダウンした。
 黒雲が、吸い寄せられるようにモクモクとわいてきて、空を覆い始めた。
 そして、ポツポツと、大粒のしずくを落としはじめた。
 ミキオの目からは、あふれる涙が、とめどなく落ちていた。
 今、母を突き放したのだ。
 今、母を許したのだ。
 心から、母に受け入れて欲しいと願った。
 今は天照が、ミキオの全てを包み込んでくれた。
茶髪のにぶい輝きは、もう全くその場にはそぐわなくなっていた。
 ユキタは、弓を取り落とした。
 衣の襟を両手でしっかり握りしめ、しばらく雨に打たれていた。
 額で雨粒を受け、けしてうつむきはしなかった。
 白うさぎとムササビがぬれながら、後方にある松の木の上と下で見守ってくれていた。
稲妻が走った。
 ユキタとミキオのいる崖の上に地響(じひび)きとともに衝撃を与えた。
 二人は、ほぼ同時に、気を失った。